あびのプロフィール

どうも、輝きITエンジニア運営者のあびです。

プロフィールにお越しいただき、ありがとうございます。

単なる凡人のプロフィールページですが、なにかを得て帰っていただけたらと思います。

プロフィール

スポーツ好きな普通の少年(誕生~中学生)

山と川に囲まれた九州の田舎で誕生し、幼少期は父親の転勤で九州の各地を転々としました。

裕福でもなく、貧乏でもなく一般的なサラリーマン家庭に育ち、小学校でボーイスカウトに入団。その後はソフトボール→野球と体を動かすことがとにかく好きな少年でした。

身長が低かったというコンプレックスを抱き、中学に入ると「毎日ジャンプするから背が伸びるらしいよ」といウワサ話を聞きつけバレーボール部に入りました。

ウワサには見事に裏切られ、背は伸びず、与えられたポジションはセッター。でも性格に合っていたのか縁の下の力持ちとして活躍しました。

練習試合では市内で上位には行けるだろうという感触は掴めていたのですが、3年生最後の中体連ではキャプテンが試合中に怪我をするトラブルもあり区大会で敗退。青春は終わったと思いました。

しかし後日県内トップレベルの高校から”特待”の誘いを受けます。

ここが人生最初の分かれ道だったのですが、ぼくはその高校の下調べもせず「断ったら顧問の先生に悪い」、「授業料完全免除のため、親の負担を減らすため受けるべき」という理由から”特待”を受けてしまいました。

地獄の3年間(高校生)

中学生気分のまま入学したのですが、そこは地獄の1丁目だったのです。

これが1年生のときの1日のルーティーンです。

  • 朝5時起き、始発の電車で学校へ
  • 6時学校着、先輩の洗濯、部室掃除
  • 7時から朝練、8時半まで
  • 授業中は睡眠時間
  • 授業が終われば21時まで練習
  • 22時半家に着くと倒れるように就寝

これが364日続きました。そう、休みは元旦だけ。超ハードな練習と超厳しい先輩たち。最初の1年間は本当に地獄でした。

入学2週間後くらいに”ミセシメ”という儀式を終え、1年生は完全に先輩の手下となり、”パシリ”、”球拾い”と常にダッシュを強いられました。

ボールを先輩に渡す際に必ず「すみませんでした」と言わないといけない謎のルールがあり、先輩がいる2年間で1万回くらい謝ったと思います。

おかげで体と精神は鍛えられ、後に職場でも”鉄人”と呼ばれます。

流されるまま(専門学校~就職)

高校卒業時、バレーボールを続ける場合は監督のコネにより大学や就職先を手当してもらえる特権があったのですが、ほぼ全員が特権を使用するなか、ぼくは受けませんでした。正直そんなに好きではないバレーボールにこの先縛られるのが嫌だったからです。

しかし、高校3年間ロクに勉強していないため、受験勉強も虚しく受けた大学3つにすべて落ちました。

実は中学校のときにお金持ちの友達がPC8801というパソコンを持っていたことがキッカケでパソコンに興味を持ち、当時そこそこの値段(確かモニター込で7万円くらい)のMSXというパソコンを買ってもらい雑誌に掲載されたプログラムを写経するという趣味を持っていました。

その時のことを思い出し、情報系の専門学校に入学します。ただ束縛の3年間を抜け出したこの時期、結局遊び呆けて進路指導の先生に流されるまま、なぜか測量会社に就職しました。
※就職率100%を謳っていたこの専門学校ですが、手段は選ばなかったようです。

ブラック・ブラック・ブラック(ITエンジニアに転職)

測量会社で社会人の”いろは”を学び、道路を測ったり、地図を描いたりしたのですが、当然自分のやりたいことではなく、IT系の会社に転職します。

”初心者大歓迎”を掲げる社員数10名くらいの小さなソフトウェアハウスでしたが、運良く大手IT企業の下請けの仕事をゲットしたぼくはエンジニア人生をスタートさせます。

時は”ミレニアム”という言葉で賑わっていた2000年頃、IT業界はトラブルしかありませんでした。いるかいないか分からないプロジェクトマネージャー、多分ほとんど寝ていないプロジェクトリーダー、険悪な進捗ミーティング、失踪者数名。

入社2年目で1億円規模のシステムのメイン機能を任され、ろくにレビューを受けないまま納品。

通販会社のシステムだったのですが、稼働初日は不要データの伝票が混ざって出力され、社員全員で不要伝票の探索をしたり、開発したバーコードスキャナがバグって出荷用トラックを数時間待たせたりと散々でした。

稼働後2週間の平均睡眠時間は2時間程度でした。

このようなブラックな環境でしたが、エンジニアの仕事にはのめり込んでいき、何でも仕事を受けるもんだから自然とトラブルはぼくのところに回ってきました。

小さなソフトウェアハウスは倒産し、派遣先の会社に転職してからもブラックなプロジェクトを渡り歩き、1,000人いる会社の中で残業時間1位という不名誉な地位も確立しました。

こんな時期に結婚し2人の子供にも恵まれましたが、とにかくよく働きました。

子どもたちには「大人ってめちゃくちゃ働くんだ」という印象を植え付けたと反省しています。

社会人人生最大の試練(プロジェクトマネージャー)

当時転勤で近畿地方にいたのすが、希望を出して九州にUターンしました。Uターンの条件として受け入れたのは困難プロジェクトへの参画でした。

条件を受け入れないとUターンできなかったことと、「何とかなるっしょ」という軽い気持ちで受けたのですが、これが社会人人生最大の試練となったわけです。

メンバー35人を率いるプロジェクトマネージャーとして就任したのですが、メンバーのほとんどは協力会社さんで前任のマネージャーに対する不満を引きずったまま完全アウェー状態でした。

また、世界各国が利用しているシステムだったため、システムはもとより設計書等のドキュメントがすべて英語であり、プログラマーはすべてインド人(英語でコミュニケーション取る必要あり)という環境でした。

中学校依頼英語に触れたことが無かったので、自己紹介は丸暗記して乗り切りましたが、就任2日目でマネージャー会議に出席した際は1%も理解できないまま、「どう思いますか?」と振られ、「はい、大丈夫です」と答えるのがやっとでした。

通勤時間で英語の教材を聞き流し、インド人には下手な絵とジェスチャーで説明し、メンバー35人と個別に面談を行い抱えきれない不満を1つ1つ解消していきました。

とにかく体力勝負でしたが6年経った頃には英語で会議を進行できるくらいになり、メンバーとの信頼関係も構築できていました。

タイムマネジメントにハマる(管理職)

42歳のときに管理職になり、これまで青天井で支給されていた残業代が0円に、しかしやることは増える一方。

「このままでは仕事だけで人生終わる」と危機感を抱き、タイムマネジメントを勉強し始めました。

手帳を使ったスケジュール管理、ポモドーロ・テクニック、ゴールデンタイムの有効活用、ウィルパワーの節約・回復、睡眠の改善、朝活、瞑想・・・、様々なことを試しては改善を繰り返しマイタスク管理手法を構築しました。

以前は10時間かかっていた仕事も現在では7.5時間で終わらせられますし、ほとんどできていなかった仕事以外の自己研鑽に今では1日約3時間費やすことができています。

当ブログを始めたキッカケと発信内容

46歳のときに”セカンドキャリア”について真剣に考えました。

自分の強みを活かし、人生の後半で戦っていけるフィールドを考えた結果”エンジニア×マネージャー”でした。

ただし、これでは希少性が低いため、これからのAI時代に必要なデータ分析のスキルをつけて、希少性を高めようと思いました。

「ITアナリストマネージャー」これがぼくの目指している肩書です。

得た知識を言語化し体系的にまとめアウトプットする。
これが学んだことを効率的に記憶に定着させる方法であり、スキルを資産化する方法でもあります。

また、当ブログの記事が訪れた方のスキルアップに役立つことができれば、これまた幸いです。

このような目的からブログをスタートさせました。

当ブログでは以下のような内容を発信していく予定です。

  • タイムマネジメント・習慣化
  • ITエンジニアのスキル
  • プロジェクトマネジメント
  • データ分析(データサイエンティスト)

ご意見、ご要望等ありましたら、問い合わせページよりお問い合わせください。